ただ記録する。

日々の記録。

とうもろこしのフリットを一緒にたべた

誰かを好きになるということはどういうことなのか。興味を持ちもっと知りたいという気持ちなんだろう。相手の気持ちを知るためには自分の気持ちをぶつけるしかない。ぶつけたところで相手がどういう反応をするかはわからない。それが真っ黒であれば諦めるのか、それでも諦めないのか。白だったらお付き合いをするということになるのか。じゃあグレーだったらどうする。わたしはよくこのグレーな状態に足を踏み入れてしまう。相手に拒否されない限りぶつけてしまう。そして粉々になったこともある。今思えばあのときは相当やられていたと思う。ここはどん底だなと感じた場所にいて、それでもここが底であればあとは登るしかないと思った記憶。昭和の根性論とよく言われるけれど、それに救われているんじゃないか、ある意味、麻痺していかれた感覚で今の時代にはまったくそぐわない論ではある。もうがんばりたくない。とにかくがんばりたくない。他人と一緒にいるとひとりよりもエネルギーを消耗する。省エネで生きていたいわたしにとって、それはかなりの消耗だ。それでも他人と時間を過ごすことを選択する理由はなんなのか。付き合えないと言われたのにやめない理由はなんなのか。「付き合うか付き合わないか」はわかりやすいけれど、重要なのは「付き合うこと」ではない。一緒に過ごす時間が大事なんだ。これが続く保証はなにもない。それでもそれを積み重ねる。すべて崩れるかもしれないというのに積み重ねる。すべて崩れるわけではないか。積み重ねたところで終わる、ただそれだけただそれだけ。付き合おうがなかろうが結婚しようがそれはゴールじゃなくて、続くだけ。途方に暮れるな。それでも他人と一緒にいたいという気持ちがあるうちはそれでいっか。

大人だってキュンとする

頭で考え過ぎて細い糸が絡まるように妄想にとりつかれるか、冷静になりすぎて壁を作ってしまうことが多い。ここ数年はそういうことが多かった。今回違ったのはとりあえず行動したということ。とにかく会って話したかった。多分、いつもこれでいいんだろうけど、頭で考えてしまうことが多くなったのは悪い意味で大人になったのかもしれない。相手が断りやすいように保険をかけつつ、ぶつけてだめならそのとき考えよう。そうやって投げたものを相手が受けとめて返してくれた。結果は社会通念上のそれとはちがう。お互いの気持ちをすりあわせた。名前のない関係性なんだけれども、名前があるからといって何かが保証されるわけではない。名前があったらすこしは安心するのかな。手に入れた名前のある関係性の次を求めてないものねだりの繰り返しなんじゃないかな。そういうことを考え出すときりがなくて、そういう自分が嫌になる。やっぱりわたしは他人とは一緒にいれないだと自己嫌悪に陥り、その根源をなくせば解決すると思うのか生きていることが嫌になる。まあめんどうくさい人間なんですよね。これを自覚しているから週末をのびのびするためになんとか働けるし、生きているんだろうな。今週末は好きな人間が家にくる。感情の昂りはないけれど、なるべくわたしも部屋もいい状態で会いたいというわけで、すこしの努力をしています。思っていたよりも表面上はおちついている。そういうわたしは感情が冷めているのかなってまた嫌になるんだけど、本当はとてもうれしいはず。感情をなくしたほうが生きやすい時期があってそのくせがでているんだと思う。本当はうれしいでしょうね。たのしみだね。きょうはもうおやすみ。

たにんのこどく

結局、他人の孤独はわからない。他人が発したことを自分のことのように考えるのはわたしの癖だ。他人が発したことはそうだねって聞くのがベストだということは頭では理解しているのだけれど、無意識に解決する方法を考えてしまう。毎回同じことを考えるのにまた同じことをする。そうだねそうだねって適当に聞き流すくらいなら何も聞きたくないなって思うからひとりでいるのをわたしは好むのかもしれないな。考えていることはわたしのことばかり。そういうことにも気づいて自己嫌悪する。そしてひとりでいるほうが穏やかに暮らせるなって、いきつくところはいつも同じ。他人が発した言葉にはいい意味で適当にそうだねって返してみるということでこの話はおわり。

 

誰かが思う孤独はまだわからない。

人と接したときにひとり反省会が始まることがよくある。仕事のときはほとんど話さないし話したとしても業務的なことが多い。そういうときは比較的、反省会の頻度は少ない。時々プライベートな話とかその場の空気を壊したくて発するときにはひとり反省会をすることも多い。ひとりで過ごしているとこれがないからとても穏やかだ。ひとりでいることを寂しいとは基本的には思わない。心地のいい孤独だと思っている。人と接するのがしんどくてそう思い込もうとしているのかと考えることもある。心地いいと感じる友人もいるから恐らく無理はしていないだろう。時々人恋しくなり深酒をしたときに勢いで文字を送りつけたり、声を聞こうと発信をすることもある。記憶が薄っすらとしているから断定はできないけれど、こういうときはだいたい、本能的に交信したい人に連絡をとっているであろうと推測する。これは心地のいい孤独の話。

知人や友人がいるなかで感じる孤独というのはあまり味わいたくない。見知った人がいるにも関わらず、なぜ孤独を感じるのか。それは知っているのに話せない、うまくコミュニケーションがとれない、自意識が過剰になり他人を意識しすぎて身動きがとれない。そういうふうに感じるときは本当はその場にいたくないんだと思う。付き合いでいった場所やイベントごとだったり、いわゆる社交辞令的なもの。自分が好んで行く場所や音楽だとしたら誰かがいても孤独は感じない気がする。ということは誰かがいて孤独を感じるときはその場所を去ればいいということになる。

自宅でひとりでいることに関しては孤独は感じない。自分で選択して選ばなかった人生が華やかに見えたときに、わたしはこれでよかったのかなってすこし不安になる。そんなときに孤独を感じる。そういうときには気心しれた友人に会いたくなるし、連絡をとりたくなる。今どう選択するか決めて進んでいくしかないということは頭では理解している。「わたしはそれをしたいのか、自分で選択して生きてきただろう、今何がしたいのか何もしたくないのか、それをとりあえずやったらいい」と不安で泣きそうなわたしを冷静なわたしがツッコミをいれることでなんとかバランスを保つ。したいことをするのが一番の特効薬だと思っている。例えば、食べたいものを食べ、飲みたいものを飲むとか。行きたい場所に行くとか、何も考えず眠るとか、ぐっとくるものを探しにいって買うとか。一番いいのはスーパーに行く、おいしそうだと思った食材を買う、家で何か作る、食べる。眠くなったら寝る。好きな音楽を聴く。何もせずごろごろするがいい。そして月曜日になればまた仕事が始まり、お昼のお弁当の用意をする。リズミカルな毎日が始まる。これによって生活リズムは嫌でも整うし、おまけに給料ももらえる。週末は時間を好きに過ごし、時々遠出することもできる。今の仕事はそのためのお金を稼ぐためのものと考えているから任務は果たそうと思っているけれど、そんなに重きをおいていない。毎日休みだったらいいなと考えることもあるけど、仕事のおかげでバランスは保たれていると思うと、嫌なことも時々あるけど、ひとりでモクモクできて休日も十分、残業もほぼなく最高だ。結局仕事もプライベートも基本的にはひとりが居心地いいということだ。明日からまた黙々と働いて週末が近づくことを楽しみながら生きようと思う。

家でひとりでいることを孤独だと感じ、それを不安に思う。また家にいるより外での活動を好むひとの孤独について考えていたんだけど、まずはわたしは孤独というものをどのように受け止めているのかを考えていたら長々とした文章になってしまったのでそれについてはまた別の機会にする。

わからないのにわかるとは言えないめんどうくさい人間


休日の夕方まで何もせずに家にいたと嘆く人がいる。わたしはそういうひとの気持ちがわからない。例えば掃除をしようと思ったのにできなかったならまだわかる。やらなかった自分への嘆きだろう。何もしなかったということはしたいことがあったのだろうか。何もしないということがよくないことだと思っているのか。前者であれば次の休みにやりたいことをやったらいいと思う。後者であれば何もしないこと、いわゆる無駄に過ごしたということだろう。無駄は時にはいい余白になるのではないかとわたしは思っている。あまりにもギュウギュウに詰めてしまうとしわ寄せがくることがあるとけど、何もしない時間があることで何かをするときに気持ちに余裕が持つことでより楽しめるし、消耗も抑えることができるのではないだろうか。長々と入力したが、わたしは何もしなかったと嘆くひとにかける言葉がわからない。きっと言葉は必要ないのだろう。あーわかるがいちばん良さそうだけど、やっぱりわたしはわからないとしか言えないとおもう。

手放したら巡るのかもしれないな

ここにきて3年、ちがう土地にいこうかと思っていたけれど、残ることにした。住んでみたいと思っていたところの物件情報をインターネットで1週間くらい眺めた。眺めたところで何も進まない。不動産屋を調べて物件を見に行った。ぐっとくる物件がなく、不動産屋におすすめの不動産屋を聞いてはしごした。持ち帰り翌日には決めた。今までは1Rだったから1Kでキッチンが広いのが決め手だった。エレベーターなしの4階、ちょうどいいベランダ。窓を開けたら風が気持ちいい。築年数の古い落ち着いた部屋。ソファを置くスペースなんてない。それでもわたしひとりならちょうどいい。ユニットバスは嫌な人が多いよね。シャワーだけなわたしには、掃除も楽だしちょうどいい。シューズラックがあって、お気に入りの靴がちょうど収まった。幅狭で高くも低くもない本棚を買って組み立て、本とCDを収納した。CDははみ出したから手前に積んだ。引っ越しを決めてから親しい人に連絡したり、会いたい人から連絡がきたり、約束をしたり、そういう気力が湧いてきた。引っ越しを決めてよかった。少しずつおきにいりを増やして暮らしていこう。

穏やかな日々

抑揚のない毎日を過ごしている。可も不可もない。誰かと交流しようと酒場に行くよりもお家でひとりでいるか映画館に行ったり、おいしいものを食べたりするほうが満たされるような気がする。好きなように生きているなかで誰かと出会えたら最高なのかもしれないな。