ただ記録する。

日々の記録。

野良猫のエンターテインメント

そのことについて考えていたわけではないのに、ふと思いつくことがある。小学生の頃から考えて決めて生きてきた。これって本能なのかもしれない。発言も行動も思ったまま生きてきたと考えると今までのわたしに合点がいく。中学生の時にけんかをしたままの友人がいて卒業式に「卒業だから仲直りしよう」というようなことで和解を求めてきたのに、「卒業だからという理由なら別にしなくてもいいじゃないか」みたいなことを言ったり、妹や弟のことでその担任に相談されても「本人じゃないのでわかりません」とか、今思うとかなり狂った回答をしている。流れる雲をみて友達みたいに思っていたり、いろいろと思い出すのが怖い。高校生の時も恋愛も貞操観念も善悪とかなく思考と感情は無に近かったのかもしれない。具体的には言えないけど、大人になってからもそれは続いていた。そのことでとても近しくて親しかった友人との関係も最悪の形で終わった。その結果、わたしのすべてがだめなんだと認識し、自分のことが信じられなくなり人間が怖くなった。決して人間不信(相手が悪いわけではない)ではなく、自信喪失による自意識の過剰である。幸いなことにお金持ちではなかったし、齧るスネもなく自分で働いて生計を立てるしかなかったからひきこもるわけにはいかない。仕事のために他人と接しなくてはいけないし仕事もする必要があった。それ以外はいろんなコミュニティと距離をとっていた。アサーションの本や鬱の本を貸してくれた友人がいて、とりあえずそれを読んだ。何もしないよりも論理的に考えるほうが気持ちは楽だった。母の闘病生活後、葬式が終わったタイミングでいろんなことに終止符を打つことを決めた。狭いコミュニティのなかで生きていくよりも誰も知らないところで生きるほうが楽だと考えた。地元に会いたい人がいるのに帰るのが怖いと感じた理由がすこしわかった気がする。父親は仕事で不在が多く、母親は自由に生きていて、家はあるのに野良猫(本能でなんとか)みたいな生き方だったのかもしれないな。幼稚園のころから絵本に興味を持ち、それ以降もたくさんは読んでいないけど、本を読むこと、ラジオを聴いたり、吹奏楽に入部したいと自分で決めて、音楽も好きで、勉強は進研ゼミをちょっとやったかな。成績は可も不可もなく。出会ったひとたちからいろんなものをおしえてもらって好きなものが増えていった。仕事の仕方も教えてもらった。いいことばかりではないけど、周りのひとたちのおかげでなんとか生きている。本能で生きてきたから今までこうだったし、修正しつつも生きづらいんだなって気づけたのは、よかったのか。気づいたからといって今までのことがなかったことになるわけではない。音楽と映画と本と、たまには落語。一緒に暮らしているメダカたちヌマエビたち植物たちと、穏やかに生きていく方法を考えながら、いつ死んでもいいという気持ちで生きていこう。

誰かにとっての、

価値観の話、3000円をどう使うか。
わたしはスーパーでぐっとくる食材はないかを楽しむ。
吟味する時間もわたしにとっては良い時間。
3000円なんて酒の場ではあっという間に消えてなくなる
泡銭なんだけど、スーパーで何が買えるかとか
品揃えとか考えるとたのしい。
答えがでないとしても
考えることががやっぱり好きなんだと思う。
これがわたしのいいところだ。

 

それはバールのようなもの

のようなものがそれになったとき、拍子抜けした。うれしいとか安心とかそういうのでもなく、すこしはうれしさもあったかもしれない。そっかーって思った。気持ちや状態がずっと続く保証なんてない。結果として続いている。終わるときもそれはただの結果。人間は必ず死ぬ。もしかしたら死なないひともどこかにいるかもしれない。あした死ぬかもしれない。生きているあいだは生きる、ただ生きるね。

平日はベルトコンベアー

何か考えているようで何も考えていない。頭のなかでぐるぐるしている正体はよくわからないけれど、出口の見えないトンネルの中にいるように思考がぐるぐるする。聞かれる前に勝手に考えて相手にアドバイスするつもりはないけど、それはただのお節介だときづいたときには自己嫌悪。これも勝手な解釈で、これが負のループとなり抜け出せなくなる。起きてしまったことは仕方がないと気持ちを落ち着かせたけれど、起きてすらいなかったことに今更気づく。いつもいつもこのくりかえしで嫌になる。認知の歪みもあるだろうし、相手とすこしずつキャッチボールしたらいいのに、自分の思考のなかだけで完結させようとする思考のクセがあるんだと、理解はしていてもその状態にあるときは何も見えていない。抜け出したときには時すでに遅しだ。ひとりでいるのが寂しいという気持ちがないわけではないけど、ひとりのほうが圧倒的に楽だ。3連休は明日まであるというのに、すでに次の週末のことを考えてしまう。このままずっとお家にいたい。それでも火曜日になればいつもどおり起きてお弁当を用意して、この玄関をでて電車に乗る。そのベルトコンベアーのようなものに乗ってしまえば、ただただ週末に向かうだけだ。このことを頭でわかっているからそれに乗ればどうにかなるということが自動運転になっている。お家にいたほうが気持ちは楽だけど、仕事に行けば嫌でも外にでるし、規則ただしく働いて給料がもらえる。この一連の動作はわたしが生きる上で必要なお金が発生し、生活リズムも整うという効果もある。お金持ちではないからこうするしかない。生きていくには自分でどうにかするしかないって中学生のときには考えていたからこれが染み付いている。過去のわたしグッジョブだな、ありがとう。

それを短く吐いた

八百屋に行こうと思った

雨がポツリ やっぱりやめた

何してるかな やっぱりやめた

つぶやくように自分と話した

球根の根っこがかわいい

ああかわいいなあ かわいいな

バゲットを薄くスライスしてたべた

こおばしくておいしいおいしいなあ

何度もつぶやいて噛みしめる咀嚼

さよならを集めて聴いた

向こう側もあるしさよならじゃない

気づいたらそれは空腹

そうだ何か作ってたべよう

追いかけられない理由はわたし

年始に日記を書き始めようかと思った。書かなければいけないという気持ちになり嫌になったからやめた。決めてしまうと息苦しくなる。このブログは記録したいときに更新したらいいやって思って始めた。更新頻度はゆるいし、閲覧している人がいるかもわからないけれど、続いている。これくらいがいいな。20%引きのバゲットをギザギザのナイフで薄めにカットしてスモークチーズと一緒にたべたらおいしかった。それだけでたべてもおいしかった。こおばしくておいしかったなあ。あしたもたべよう。そろそろ寝ようかな。一緒にいてもいなくてもおやすみ。

とりとめのない下書きに蛇足

毎日ほぼ同じ時間に起きる。平日は職場に行くことを目標に支度を済ませ玄関のドアを開けることができる。ゴミの日は捨てる。電車に乗って職場へ向かうときになるべくであればせかせかしたくない。ただギリギリの時間で動いているときはどこかではせかせかしないといけないポイントがある。そういうときはどこでせかせかするかを決めてせかせかする。こういうことがないようにスケジュールは組みたいところではある。でもまあ理想と現実はちがうことも多々ある。起きたことを受けてどうするか。ちょっと大げさにいったけれど、すこし早めに行動したらどうにかなる。他者他所に求めても解決はなかなか難しい。自分でできることをしてだめなら諦める。いつからだろうかこういう考えになった。たとえば電車通勤のなかでこうしてくれたらいいのにとか、社会通念上の当たり前を考えてもそれに当てはまらないひともいるし、わたしはそう思うけどはたしてそれは世の中の当たり前なのだろうか、わたしも同じ立場になることがあるのではないだろうか、そう考えてしまうとなかなか他人に求めることができない。これって結局自分のことしか考えてないんだろうな。自分もそうかもしれないから相手にも求めない。自分のことを許してほしいから他人のことも許す。許すというよりもそれぞれいろいろありますよね。というほうが近い。人間というものは言葉があるのにも関わらず発した言葉がその人の感情を正しく表しているといえばちがうこともある。日本語以外の言語を勉強したことがないのでわからないけれど、少なくても日本語というものは、いわゆる空気というものを読むという場面が時々あるのでとても困る。公共の場、職場であったりとか誰にでもわかりやすいようにするほうがいいとわたしは思うけれど、知識のあるひと、理解の早いひとは省略というものを好むのか省略をすることがある。なぜわたしがその人の気持ちを汲まなければいけないのだろうかと思うけど、それを言うエネルギーはない。頭がいいのにこういう方法でやるってことはこういう方法でしかやるつもりがない人なんだろう、そんな人にいうエネルギーはない。頭がよくてわかっているならそういうやりかたはしないだろうから、言う気にもならない。わからなくてやってない人になら言うかもしれない。言っても仕方がないし、言った言葉は結局自分に返ってくる。わたしみたいな人間が他人様に言える立場ではない。そうやって言わずにいるからこんな下書きをするんだろう。人間界で生きていくのはやっぱりしんどいな。