いろいろ考えたり思ったりはある。消化できないことをここに記録していた。最近はChatGPTに入力し自分の頭のなかを整理したり納得させている。自分の頭の中はこれで解決するんだけど、他人と話すとこれと同じことはできない。そうなると他人とのコミュニケーションはますます億劫になる。引っ越してもうすぐ2年。親しい人間は1ヶ月に1度くらい会う友人と近所の酒屋のおねーさんくらい。あとは職場のひとと仕事のときに少し話す。立ち飲み屋のひととすこし話すとか。それでも基本的に寂しいとは思わない。住んでいる部屋のなかには植物たちもいるし、メダカたちとヌマエビたち、ベタもいる。好きな音楽も本も映画も観れる。同じことばかりいつもくりかえすけど、好きなものがある空間にいてひとりで過ごすのはとても穏やかでいい。時々遊ぶ友人とはゆるりとどこかでかけたり、出発の時間と行く場所をなんとなくだけ決めてあとはなんとなく解散。人間界でもゆるりと気をはらずにすごせる。休日はひとりでいることが多い。ドラマや映画を観たり音楽を聴いたり。スーパーや街なかに買い物に行くこともある。最近下唇に違和感があってただの炎症かなもしかして10年ぶりくらいの口唇ヘルペスかなと判断に迷っていたら悪化した。皮膚科は近くにない。休みも数日後。初期段階で内服薬が最善なのはわかっていたんだけど、3日目にいろいろ調べて夕方にはじめてのオンライン受診。薬の受け取りは近所の徒歩5分くらいの調剤薬局が指定できた。今朝受け取りに行った。きょうのミッションは完了した。内からでたついでに水を2リットルとタカキベーカリーの石窯くるみパンとモーニングフランス、シュークリームをKELTYのリュックにいれて帰宅。コーヒー豆を挽いて淹れたといっしょにシュークリームを食した。昼ごはんはベーコンのかわりにスライスして焼いたウインナーを使ったカルボナーラ。お腹を満たしたあとは「オンライン受診」のことを調べていた。夜間早朝の加算と時間外加算の違いとか、どういうシステムなのかとか。気になるを調べ始めると過集中になりずっと調べてしまう。ChatGPTの説明がわかりづらくてわかりづらいとか平気でいってしまう。論点がずれていく感じがあって、なんとか要点をしぼって理解したところで終了。今はハードオフのジャンクコーナーでみつけた110円のショパンのワルツ集(ピアノ)がとても心地いい。それを聴きながらひさしぶりに記録。休日は自由でいいな。次の休日と次の食事がたのしみできょうも生きている。
野良猫のエンターテインメント
そのことについて考えていたわけではないのに、ふと思いつくことがある。小学生の頃から考えて決めて生きてきた。これって本能なのかもしれない。発言も行動も思ったまま生きてきたと考えると今までのわたしに合点がいく。中学生の時にけんかをしたままの友人がいて卒業式に「卒業だから仲直りしよう」というようなことで和解を求めてきたのに、「卒業だからという理由なら別にしなくてもいいじゃないか」みたいなことを言ったり、妹や弟のことでその担任に相談されても「本人じゃないのでわかりません」とか、今思うとかなり狂った回答をしている。流れる雲をみて友達みたいに思っていたり、いろいろと思い出すのが怖い。高校生の時も恋愛も貞操観念も善悪とかなく思考と感情は無に近かったのかもしれない。具体的には言えないけど、大人になってからもそれは続いていた。そのことでとても近しくて親しかった友人との関係も最悪の形で終わった。その結果、わたしのすべてがだめなんだと認識し、自分のことが信じられなくなり人間が怖くなった。決して人間不信(相手が悪いわけではない)ではなく、自信喪失による自意識の過剰である。幸いなことにお金持ちではなかったし、齧るスネもなく自分で働いて生計を立てるしかなかったからひきこもるわけにはいかない。仕事のために他人と接しなくてはいけないし仕事もする必要があった。それ以外はいろんなコミュニティと距離をとっていた。アサーションの本や鬱の本を貸してくれた友人がいて、とりあえずそれを読んだ。何もしないよりも論理的に考えるほうが気持ちは楽だった。母の闘病生活後、葬式が終わったタイミングでいろんなことに終止符を打つことを決めた。狭いコミュニティのなかで生きていくよりも誰も知らないところで生きるほうが楽だと考えた。地元に会いたい人がいるのに帰るのが怖いと感じた理由がすこしわかった気がする。父親は仕事で不在が多く、母親は自由に生きていて、家はあるのに野良猫(本能でなんとか)みたいな生き方だったのかもしれないな。幼稚園のころから絵本に興味を持ち、それ以降もたくさんは読んでいないけど、本を読むこと、ラジオを聴いたり、吹奏楽に入部したいと自分で決めて、音楽も好きで、勉強は進研ゼミをちょっとやったかな。成績は可も不可もなく。出会ったひとたちからいろんなものをおしえてもらって好きなものが増えていった。仕事の仕方も教えてもらった。いいことばかりではないけど、周りのひとたちのおかげでなんとか生きている。本能で生きてきたから今までこうだったし、修正しつつも生きづらいんだなって気づけたのは、よかったのか。気づいたからといって今までのことがなかったことになるわけではない。音楽と映画と本と、たまには落語。一緒に暮らしているメダカたちヌマエビたち植物たちと、穏やかに生きていく方法を考えながら、いつ死んでもいいという気持ちで生きていこう。
誰かにとっての、
価値観の話、3000円をどう使うか。
わたしはスーパーでぐっとくる食材はないかを楽しむ。
吟味する時間もわたしにとっては良い時間。
3000円なんて酒の場ではあっという間に消えてなくなる
泡銭なんだけど、スーパーで何が買えるかとか
品揃えとか考えるとたのしい。
答えがでないとしても
考えることががやっぱり好きなんだと思う。
これがわたしのいいところだ。
それはバールのようなもの
のようなものがそれになったとき、拍子抜けした。うれしいとか安心とかそういうのでもなく、すこしはうれしさもあったかもしれない。そっかーって思った。気持ちや状態がずっと続く保証なんてない。結果として続いている。終わるときもそれはただの結果。人間は必ず死ぬ。もしかしたら死なないひともどこかにいるかもしれない。あした死ぬかもしれない。生きているあいだは生きる、ただ生きるね。
平日はベルトコンベアー
何か考えているようで何も考えていない。頭のなかでぐるぐるしている正体はよくわからないけれど、出口の見えないトンネルの中にいるように思考がぐるぐるする。聞かれる前に勝手に考えて相手にアドバイスするつもりはないけど、それはただのお節介だときづいたときには自己嫌悪。これも勝手な解釈で、これが負のループとなり抜け出せなくなる。起きてしまったことは仕方がないと気持ちを落ち着かせたけれど、起きてすらいなかったことに今更気づく。いつもいつもこのくりかえしで嫌になる。認知の歪みもあるだろうし、相手とすこしずつキャッチボールしたらいいのに、自分の思考のなかだけで完結させようとする思考のクセがあるんだと、理解はしていてもその状態にあるときは何も見えていない。抜け出したときには時すでに遅しだ。ひとりでいるのが寂しいという気持ちがないわけではないけど、ひとりのほうが圧倒的に楽だ。3連休は明日まであるというのに、すでに次の週末のことを考えてしまう。このままずっとお家にいたい。それでも火曜日になればいつもどおり起きてお弁当を用意して、この玄関をでて電車に乗る。そのベルトコンベアーのようなものに乗ってしまえば、ただただ週末に向かうだけだ。このことを頭でわかっているからそれに乗ればどうにかなるということが自動運転になっている。お家にいたほうが気持ちは楽だけど、仕事に行けば嫌でも外にでるし、規則ただしく働いて給料がもらえる。この一連の動作はわたしが生きる上で必要なお金が発生し、生活リズムも整うという効果もある。お金持ちではないからこうするしかない。生きていくには自分でどうにかするしかないって中学生のときには考えていたからこれが染み付いている。過去のわたしグッジョブだな、ありがとう。