ただ記録する。

日々の記録。

平日はベルトコンベアー

何か考えているようで何も考えていない。頭のなかでぐるぐるしている正体はよくわからないけれど、出口の見えないトンネルの中にいるように思考がぐるぐるする。聞かれる前に勝手に考えて相手にアドバイスするつもりはないけど、それはただのお節介だときづいたときには自己嫌悪。これも勝手な解釈で、これが負のループとなり抜け出せなくなる。起きてしまったことは仕方がないと気持ちを落ち着かせたけれど、起きてすらいなかったことに今更気づく。いつもいつもこのくりかえしで嫌になる。認知の歪みもあるだろうし、相手とすこしずつキャッチボールしたらいいのに、自分の思考のなかだけで完結させようとする思考のクセがあるんだと、理解はしていてもその状態にあるときは何も見えていない。抜け出したときには時すでに遅しだ。ひとりでいるのが寂しいという気持ちがないわけではないけど、ひとりのほうが圧倒的に楽だ。3連休は明日まであるというのに、すでに次の週末のことを考えてしまう。このままずっとお家にいたい。それでも火曜日になればいつもどおり起きてお弁当を用意して、この玄関をでて電車に乗る。そのベルトコンベアーのようなものに乗ってしまえば、ただただ週末に向かうだけだ。このことを頭でわかっているからそれに乗ればどうにかなるということが自動運転になっている。お家にいたほうが気持ちは楽だけど、仕事に行けば嫌でも外にでるし、規則ただしく働いて給料がもらえる。この一連の動作はわたしが生きる上で必要なお金が発生し、生活リズムも整うという効果もある。お金持ちではないからこうするしかない。生きていくには自分でどうにかするしかないって中学生のときには考えていたからこれが染み付いている。過去のわたしグッジョブだな、ありがとう。

それを短く吐いた

八百屋に行こうと思った

雨がポツリ やっぱりやめた

何してるかな やっぱりやめた

つぶやくように自分と話した

球根の根っこがかわいい

ああかわいいなあ かわいいな

バゲットを薄くスライスしてたべた

こおばしくておいしいおいしいなあ

何度もつぶやいて噛みしめる咀嚼

さよならを集めて聴いた

向こう側もあるしさよならじゃない

気づいたらそれは空腹

そうだ何か作ってたべよう

追いかけられない理由はわたし

年始に日記を書き始めようかと思った。書かなければいけないという気持ちになり嫌になったからやめた。決めてしまうと息苦しくなる。このブログは記録したいときに更新したらいいやって思って始めた。更新頻度はゆるいし、閲覧している人がいるかもわからないけれど、続いている。これくらいがいいな。20%引きのバゲットをギザギザのナイフで薄めにカットしてスモークチーズと一緒にたべたらおいしかった。それだけでたべてもおいしかった。こおばしくておいしかったなあ。あしたもたべよう。そろそろ寝ようかな。一緒にいてもいなくてもおやすみ。

とりとめのない下書きに蛇足

毎日ほぼ同じ時間に起きる。平日は職場に行くことを目標に支度を済ませ玄関のドアを開けることができる。ゴミの日は捨てる。電車に乗って職場へ向かうときになるべくであればせかせかしたくない。ただギリギリの時間で動いているときはどこかではせかせかしないといけないポイントがある。そういうときはどこでせかせかするかを決めてせかせかする。こういうことがないようにスケジュールは組みたいところではある。でもまあ理想と現実はちがうことも多々ある。起きたことを受けてどうするか。ちょっと大げさにいったけれど、すこし早めに行動したらどうにかなる。他者他所に求めても解決はなかなか難しい。自分でできることをしてだめなら諦める。いつからだろうかこういう考えになった。たとえば電車通勤のなかでこうしてくれたらいいのにとか、社会通念上の当たり前を考えてもそれに当てはまらないひともいるし、わたしはそう思うけどはたしてそれは世の中の当たり前なのだろうか、わたしも同じ立場になることがあるのではないだろうか、そう考えてしまうとなかなか他人に求めることができない。これって結局自分のことしか考えてないんだろうな。自分もそうかもしれないから相手にも求めない。自分のことを許してほしいから他人のことも許す。許すというよりもそれぞれいろいろありますよね。というほうが近い。人間というものは言葉があるのにも関わらず発した言葉がその人の感情を正しく表しているといえばちがうこともある。日本語以外の言語を勉強したことがないのでわからないけれど、少なくても日本語というものは、いわゆる空気というものを読むという場面が時々あるのでとても困る。公共の場、職場であったりとか誰にでもわかりやすいようにするほうがいいとわたしは思うけれど、知識のあるひと、理解の早いひとは省略というものを好むのか省略をすることがある。なぜわたしがその人の気持ちを汲まなければいけないのだろうかと思うけど、それを言うエネルギーはない。頭がいいのにこういう方法でやるってことはこういう方法でしかやるつもりがない人なんだろう、そんな人にいうエネルギーはない。頭がよくてわかっているならそういうやりかたはしないだろうから、言う気にもならない。わからなくてやってない人になら言うかもしれない。言っても仕方がないし、言った言葉は結局自分に返ってくる。わたしみたいな人間が他人様に言える立場ではない。そうやって言わずにいるからこんな下書きをするんだろう。人間界で生きていくのはやっぱりしんどいな。

フェイクニャーの君に会えた日

きみは早起きなんだね。ちいさな出窓にちいさなブロックの集合体でできた黒猫の横に本物の黒猫。目を丸くしてじっと座っている。出勤途中のその光景にしばし足を止める。きょうは早めに家をでてよかったなとニヤリとしながら駅へ向かう。乗る予定の電車の時間まで数分余裕がある。ヘッドフォンで音楽を聴きながらリュックを前に背負い、前に背負うとは?まいっか。ここ数日はまた本を読んでいる。通勤時の読書がいちばん捗る気がする。多分、時間が制限されるからもっと読みたくなるんじゃないかと自己分析している。出勤途中にある好きな場所の駅で降りたいなと時々思う。突然休むことはわたしにとって難しい。計画的に有休休暇申請をだしてみんなが仕事をしている日に自由なのに給料が発生する。そういう風に楽しむことはできる。来週は平日に3連休をとって飛行機で好きな人に会いに行く。きょうは20日ぶりくらいに必要な連絡をした。連絡しないあいだにこの世からいなくなってたらどうしようってすこしだけ不安になった。明日も生きていると当たり前に思っているけど、朝になったら死んでいるかもしれないし、交通ルールをしっかり守っていたとしても車にひかれてしまうかもしれない。だからこそいつ死んでもいいようにのびのび生きていたい。かといって長生きはしたくないな。死んじゃったでもまいっかというような生き方をしていたい。なるべく嫌な人とは関わりたくないし、たくさん働きたくない。お金はたくさんあったほうがいいんだろうけど、適度に働いて休日はとにかくのびのび生きていたい。ひとりもたのしい、君といてもたのしい。ふたりでひとつだとすこし窮屈で、ふたりでふたつだったらいいなと思う。とりあえず死ぬまで生きるね。

凡庸であること

凡庸であるけれど、世間一般当たり前という型にははめられたくない。個々がそれぞれ自由であればいいとは思う。複数人で異物みたいに誰かを話題にするのはなぜだろう。わたしたちは異物ではないという確認をしないと不安なんだろうか。わたしたちは普通で変わったひとたちは普通ではないという認識なのか。誰もが普通だし誰もが変態だとおもう。

食べることが好きで生かされている

日々考えていることはいろいろあるけれど、ブログの記事にするほどではない。まとまりがなく思考がただぐるぐるしているだけだ。頭のなかにとどめておくと腐ってしまうからSNSに吐き捨てている。